樺太返還ビラ制作室



画像 樺太・西能登呂岬

SAL55300最望遠で宗谷岬より撮影した樺太・西能登呂岬です
悪天候のため、3時間ねばってやっと一瞬かすみが切れました。


2案合成たたき台 25.8.25版


「北海道の北へ-樺太へ帰ろう-」

1.北海道の北へ

北海道稚内市の宗谷岬、「日本最北端の地」と言われています。
宗谷岬から北へ、日本はさらに続いています。
 北海道の北にある大きな島、宗谷岬からも見える島、樺太(からふと)。
「サハリン」とも言われますが、これはロシアでの呼び方です。
日本でも、昭和50年代頃までは、この島を樺太と呼んでいまし
たが、昭和末期頃よりサハリンと呼ぶ様になってしまいました。
「北方領土」のように、昭和20年(1945)からロシアが占拠していますが、
樺太は、昔から日本人やアイヌ民族などが住んでいた、日本の島です。
皆さんは、ぜひ樺太と呼んでくださいね

2.樺太のあゆみ

樺太は、とても複雑な歴史を歩んだ島です。
幕末まで、諸藩が警備するなどロシアの南進をくい止めていましたが、
明治政府がまだ国内の内乱により脆弱であった明治初期、ロシアは樺太を
事実上武力制圧しました。それは明治38年、ポーツマス条約によって南樺太が
返還されるまで続きます。
 その後南樺太には、昭和20年まで、樺太庁という県に似た役所が置かれ、
その人口も最盛期には40万人を超えていたのです。これは当時の札幌市の
人口の2倍です。

3.いまどうなってるの

ロシアは樺太とは、歴史的に全く関係ありません。

先の大戦末期、ソ連(今のロシア)は日ソ中立条約を破って南樺太へ侵攻し、
多くの日本人住民に犠牲者を出した上、そのまま占領しました。
昭和50年代頃までは樺太出身者も数多く、この島の名称が樺太で
あるという事を知っていました。また、樺太に縁のある人々を中心に返還運動
を起こそうとする機運も時として高まったものです。

樺太は徐々に祖国に忘れ去れつつあります。

我々の先人方が、自らを犠牲として、ロシアより防衛・回復しその後の
樺太開拓も、並々ならぬ努力の末に、大成功を収めたのです。
 我々は、この様な島を決して忘れず、ロシア連邦にその返還を求
めて行く必要があります。


4.樺太へ帰ろう!
日本の南極観測で活躍した犬ぞり隊は「樺太犬」です。
サンタクロースのソリで有名なトナカイ、樺太では自然界に生息していました。
樺太の海や川の河口では、北海道と同じようにサケ・マスがたくさん獲れました。
マスの中で漁獲量が最も多いのはカラフトマス、樺太ゆかりの和名です。
寒冷な気候に特徴を持つ、北方の豊かな自然がありました。
広大な森林を資源とした、林業と製紙業が盛んでした。
1枚のきっぷで、日本各地から樺太まで行けました。
そんな樺太へ、いつの日にか樺太へ帰ろう!



























高橋是清議員案 2回目


 北海道の北側には、細長い大きな島があります。この島の日本名
は樺太(からふと)であり、ロシア名はサハリンです。
 日本国民の多くも国内機関の多くも、昭和50年代頃までは、この
細長い島を日本名で樺太と呼んでいましたが、昭和末期頃よりは、
露名でサハリンと呼ぶ様になってきました。
 樺太は、とても複雑な歴史を歩んだ島です。その結果、樺太は、
明治38年に南半分と北半分に分割されてしまいました。この南半分
と北半分を、それぞれ、南樺太及び北樺太と呼びます。・・(注1)
 南樺太には、昭和20年まで、樺太庁という県に似た役所が置かれ、
その人口も最盛期には40万人を超えていました。つまり、現代風の
表現を用いれば、昭和20年までは、北海道の北側に、南樺太をその
領域とした人口40万人の樺太県が実在したのです。
 それでは何故、現代風に言うなれば48番目の県であった南樺太は、
現在、樺太県として実在しないのでしょうか。それは、昭和20年に
『日本とは戦争をしません』と条約(日ソ中立条約)で約束をして
いたソビエト連邦(現在のロシア連邦の前身)が、条約を反故にし、
南樺太を軍事占領したからです。平成の御世となった今も、南樺太
は、厳密に言えば、未だ、ロシア連邦(ソビエト連邦の後継国)に
軍事占領されたままなのです。
 昭和50年代頃までは、大東亜戦争経験者が国内人口の過半数を占
め、樺太出身者も国内各地に数多く点在していた為、国民の圧倒的
多数が北海道の北側にある細長い島の名称が樺太であるという事を
知っていました。また、樺太に縁のある人々を中心に樺太返還運動
を起こそうとする機運も時として高まったものです。
 昭和末期頃になると、戦前の日本を直接知る方々の数も減少し、
樺太に縁のある方々も、あまりいらっしゃらなくなりました。その
結果、樺太は徐々に祖国に忘れ去れつつあります。
 樺太は、江戸・明治年間まで遡れば、我々の先人方が、自らの身
を犠牲として、露国より防衛・回復した島である事が分かります。
その後の樺太開拓も、先人方の並々ならぬ努力の末に、大成功を収
めたのです。
 我々は、この様な島を決して忘れず、ロシア連邦にその返還を求
めて行く必要があります。

(注1)明治初期(明治政府が樹立間もない頃)、ロシア帝国は、
    我が国の内乱に付け込み、樺太を事実上武力併合しました。
    明治後期(明治政府が確立期を終えた頃)、アジア征服を
    企てていたロシア帝国は、我が国との戦争(日露戦争)に
    敗北し、日本勝利の証として、樺太の南半分(南樺太)を
    我が国に返還したのです。 



からふとます議員案 短縮版



樺太へ帰ろう(タイトル)


【表】 北海道稚内市の宗谷岬、「日本最北端の地」と言われています。 でも正確に言えば、宗谷岬は日本人が国内旅行で行ける最北の地です。 宗谷岬から北へ、日本はさらに続いています。 北海道の北にある大きな島、宗谷岬からも見える島、樺太(からふと)。 「サハリン」とも言われますが、これはロシアでの呼び方です。 「北方領土」のように、今はロシアが事実上支配していますが、 昭和20年(1945)まで、南半分(南樺太)は日本が統治していました。 樺太は、昔から日本人やアイヌ民族などが住んでいた、日本の島です。 皆さん、樺太と呼んでくださいね。 日本の南極観測の犬ぞり隊で有名になった樺太犬、そのふるさとが樺太です。 サンタクロースのソリで有名なトナカイ、樺太では自然界に生息していました。 樺太の海や川の河口では、北海道と同じようにサケ・マスがたくさん獲れました。 マスの中で漁獲量が最も多いのはカラフトマス、樺太ゆかりの和名です。 寒冷な気候に特徴を持つ、北方の豊かな自然がありました。 広大な森林を資源とした、林業と製紙業が盛んでした。 1枚のきっぷで、日本各地から樺太まで行けました。 そんな樺太へ、いつの日にか樺太へ帰ろう! 【裏】 現在、樺太を事実上支配しているロシアは、元々アジアから遠く離れたヨーロッパの国です。 樺太とは、歴史的に全く関係ありません。明治時代のはじめ、東アジアへ支配地域を拡げた ロシアと、当時国力の弱かった日本が結んだ不平等条約で、樺太はロシア領となってしまい ます。それから30年後、日露戦争を経て南半分が日本に復帰し、日本の統治下で大きく発展 してきました。先の大戦末期、ソ連(今のロシア)は日ソ中立条約を破って南樺太へ侵攻し、 多くの日本人住民に犠牲者を出した上、そのまま占領しました。続いて自国の領土への編入 を宣言して現在に至りますが、支配する上での法的根拠は今もありません。一方、日本はサ ンフランシスコ平和条約、言わば敗戦による不平等条約で南樺太を放棄させられています が、この地域の帰属先は未定です。沖縄がアメリカの施政権下から復帰したように、条約の 内容は変えられます。歴史的に日本の領土である樺太の返還要求は可能です。領土をめぐる 不平等な条約内容を解消し、樺太から沖縄まで平和な日本を取り戻しましょう。