間宮林蔵




 安永9年(1780)、茨城県伊奈町に生まれる。 幼少より才覚に秀でており、16歳で江戸へと旅立ち、 測量術と地図製作を学んだ。

 寛政11年(1799)、幕府の命により蝦夷地へと 渡った。
 千島などの測量を行う日々であったが、
文化4年(1807)、フボストフが千島・樺太に攻撃を 加えたとき、択捉でこれに遭遇。
 抗戦を唱えるも、戦力差が大きく撤退。

文化5年(1808)、松田伝十郎とともに樺太に赴く。
 その目的は清国が影響していたサガリン島と、日本の 影響下にあった樺太が同一か調べ、大陸の半島であるか 調査することであった。
 調査隊はラッカ岬-北緯51度55分-に到り、 樺太が離島であり、アイヌの 居住状態からここを日清国境とした。
 林蔵はこの調査では不足であると、一旦宗谷に 戻った後ふたたび北進、北緯53度15分に到達した のち、シベリア・満州・沿海州と旅し、

文化7年(1810)「東韃地方紀行」 「北夷分界余話」「北蝦夷地図」にて報告する。
 その後も蝦夷地で調査を続けたが、
文政5年(1822)、江戸に戻り、異国船の調査を まかされる。林蔵の調査結果により、高橋影保に より「日本辺界地図」が作られたが、後にこれが シーボルト事件のきっかけとなる。

天保3年(1832)、シーボルトの著作により 間宮海峡(まみやのせと)がヨーロッパに伝わる。

天保15年(1844)江戸にて没。