人物紹介

樺太人物大全


大全としてありますがあんまり載ってません。(^^;













小出大和守秀実  1840頃‐不詳
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文久元年(1861年) サンクトペテルスブルグ においてロシアが提示した条件・・・ 48度線国境を受け入れるため、元治元年(1864年)ロシアと交渉した人物。
 既に幕府は崩壊寸前であったたが彼の尽力によりふたたび領土交渉が はじまった。交渉は日露間樺太島仮規則となって一応の合意となる。
 しかし非常に不満が残る中、幕府は崩壊した。  交渉後は町奉行として活躍したが維新以降どうなったのかは不明。
 ロシアの樺太進出に対して危惧し、幕府を動かした偉人。






































石川駿河守利政  不詳-1868
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小出大和守秀実の補佐としてロシア
と交渉し日露間樺太島仮規則として仮条約を結んだ人物。
実際には彼が交渉の中心だったと言われている。
外国奉行や江戸町奉行などを歴任したが 慶応4年(1868) 明治新政府軍に包囲され、自殺した。







































林子平  1738-1793

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幕末の探検家。海防の必要性を説いた人物。  西洋文明の進歩を学び、仙台藩に富国策を進言する。 が採用されず。
さらに、ロシアによる北方の動きを警戒し、安永元年(1772年)蝦夷地を 探検し、さらに長崎で西洋事情を学んだ。 寛政3年(1791)に「海国兵談」を著する。
 しかし老中松平定信はこれを妄説として発禁処分。 林子平は体調を崩し寛政5年死亡した。

 




































プチャーチン  1804‐1883
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嘉永5年(1852年)千島・樺太の国境を 決めるべく、軍艦で日本に迫った人物。
 樺太にも軍を送りつつ、長崎・大坂・下田に現れ国境を交渉 しようとした。その要求は大泊付近以外はロシア領だという 過酷な要求であった。
 安政元年(1855年)、日魯通好条約を結び日本を去る。
 ロシアの政治家でもあり海軍提督。








































川路左衛門尉聖漠  1801‐1868
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 プチャーチンと交渉する日本全権として国境問題を折衝した。 樺太国境を北緯50度、千島は得撫島までを日本領と主張し、 プチャーチンと10数回の会談を行った。
 寺社奉行などを歴任し、幕府に大きな業績を残し最後は 外国奉行となった。明治元年江戸城が明治新政府軍に包囲され た際、切腹した忠義の幕臣である。








































筒井政憲  1778‐1859
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 川路とともにプチャーチンと交渉を行った人物。 長年、南町奉行としてその仕事ぶりは高く評価され、大目付 となる。1853年長崎と54年下田のプチャーチン来日時には 応接係として対応。日露通好条約を結んだ。  彼は、ロシアによる樺太での焼き討ち事件が起こったことから 国防について幕府で熱弁をふるったといわれている。








































黒田清隆  1840‐1909
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樺太放棄論で千島樺太交換をすすめた人物。
薩摩で生まれ、近代砲術を学んだ。薩英戦争や 討幕、五稜郭の戦いなどで活躍。
 明治3年、樺太開拓次官となったが、ロシアの 進出が激しく、樺太を維持できないと判断。
樺太放棄をすすめたため、樺太買収を失敗させた。
第二代内閣総理大臣。








































高田屋嘉兵衛  1769‐1827
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ゴローニン事件を円満に解決に導き、幕末までの 北方の平和に貢献した人物。
 淡路に生まれ、航海術を学んだ。海運業で 利益を上げながら、蝦夷地への航路を開拓、大成功を おさめた。択捉島の調査などで幕府ともつながりを 強めた。得撫島には「天長地久大日本属島」の標柱を たてている。
 文化9年(1812年)ディアナ号によりカムチャッカに 拉致される。ここでロシア語を覚え、フボストフの 侵攻についての和解をするようロシア側を説得。
 日露両国を和解に導き、帰国する。その後も病弱 となったのちも公のためにその人生をささげた。







































大黒屋幸太夫  1751‐1828
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光太夫ともいう。鎖国日本においてロシアから 日本に戻り、北方の重要性を訴えた人物。
 伊勢に生まれ、商船で商いを営む日々であったが 天明2年(1783年)江戸に向かう途中に漂流し、アリューシャン 列島アムチトカ島に流される。その後カムチャッカ、 イルクーツクと渡り、漂着から9年後にペテルスブルグに。
ロシアの、日本との交易という策もあり、ラックスマンと ともに帰国する。
 彼はロシアでの見聞を11代将軍家斉に報告したり、 「北槎聞略」を記し、ロシア北方情勢についてまとめたが、  江戸に軟禁され、帰郷は許されることは生涯なかった。







































工藤平助  1732‐1800
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「赤蝦夷風説考」を著し、北方への警戒を促した人物。
医師の家に生まれ、医学と儒学を学び、蝦夷地の研究に 力を注いだ。そんな中、天明3年(1783年)「赤蝦夷風説考」を 著し、ロシアの進出に対し、蝦夷地の開発を提唱した。
これは北方に対する関心を高めるようになり、 田沼意次の北方調査や、間宮林蔵の北方探検に 大きく影響した。








































榎本武揚  1836‐1908
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千島樺太交換条約での日本全権。
江戸で旗本の次男として生まれる。
儒学を学び、中浜万次郎のもとで英語を習った。
安政元年(1854年)、樺太を探検。
以後は軍術を学び、オランダへ留学し、広く 学問を身に着けた。
慶応2年(1866年)帰国し、開陽丸の艦長に赴任。 しかし翌年幕府が崩壊。旧幕臣のため、蝦夷地の 開拓を明治政府に嘆願したが断られ、8隻の艦で 幕臣たちを乗せ函館に北上。蝦夷共和国を建国した。
 明治政府はこれを認めず、五稜郭で戦争になり、 共和国軍は降伏、榎本は逮捕されたが、その実力を 買われ、明治政府の開拓使として活躍した。
 明治8年、千島樺太交換条約では樺太を放棄し、 得撫以北の千島と交換。全千島を確保できたのは 一応は彼の功績といってよいだろう。
 その後も明治政府の要職を歴任したが、足尾鉱毒 事件で一線を退いた。








































ゴルチャコフ  1798‐1883
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千島樺太交換条約でのロシア全権。
ロシアの貴族。1856年に外務大臣となる。
清国とのアイグン条約など、もっぱら領土拡張に その力を発揮した。千島樺太交換もその典型で ある。
1878年、露土戦争後、ベルリン会議でバルカン半島に 対する権利を喪失したため、権力が失墜する。








































田沼意次  1719‐1788
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江戸幕府の老中。千島・樺太に調査隊を送り、蝦夷地 開拓事業を行った人物。
 譜代から老中に出世した実力者で、次々と新施策を 編み出した。その中のひとつに、蝦夷地調査があり、 天明6年(1785年)、千島・樺太を1年間調査した。 その際には、北方民族との交流なども行われた。
 ところがこの功績も含め田沼のものとされず、田沼は 政敵に悪徳政治家として描かれることになる。








































小村寿太郎  1855‐1911
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ポーツマス講和条約時の日本全権。
15歳の時、長崎で英語を学び、さらにアメリカへ留学して 法律を学ぶ。外務省に勤め外交官として高い信頼を得る。
 義和団事件なども担当している。
彼は日清戦争後の三国干渉で、遼東半島を返還させられた挙句 ロシアに租借されたことに対し強くロシアに対して不信を 持っていたようである。
ポーツマスでは北緯50度以南の主権を回復するなどの 江戸時代以降の失地回復に貢献した。
 生涯を外交にささげた人物である。








































ウイッテ  1849‐1915
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ポーツマス講和条約時のロシア全権。
帝政ロシアで大臣を歴任する。
経済においては、アルコールの専売や金本位制 を導入し、その力を発揮した。
ポーツマスでは、巧みな交渉術により、賠償金を 放棄させ、北樺太を割譲させずに条約締結させる などの功績がある。
条約締結後は首相となったが、半年後ニコライ2世との 対立により辞任する。