樺太県史  第1章  1590~1791

すなわち日本境内に疑いなし・・・




 時は元禄13年(1700年)天下泰平の時代。
松前藩は北海道・樺太・千島・勘察加半島(カムチャッカ)を松前藩の領土と 幕府に報告していた。
 わが国は長き鎖国と平和により、軍事的力は皆無に近かった。

・・・・・・・。

ロシアはさかのぼること1590年、ついにウラル山脈から 東の大地に進み始めたのであった。
 罪人をシベリアに送り、開拓を始めていったのである。
 シベリアの原住民には、強力な武器を持つものもなく、 至って順調に東進を続けていた。
 1638年、ついにオホーツク海北岸に到達した。

 しかしそこに至って、初めての火力兵器をもつ国家、
清に出会ったのである。
 黒竜江で清とロシアは衝突を繰り返した・・・・

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同じ頃、寛永12年(1635年)松前藩は奥蝦夷の調査のため家臣を樺太に 派遣した。
なお、千島・勘察加半島を東蝦夷地という。
 このころのロシアは樺太の存在自体をしらない。
 しかし松前藩は、すでに調査をおこない、江戸幕府 3代将軍家光にその領土として樺太を報告している。
 その絵図には、北海道の北にある長方形の大きな島として 明記されている。

また、4代将軍家綱の時代(1679年)には、ついに松前藩は 大泊に陣屋を設置し、樺太の直接統治を始めていた。


そのころロシアは清との争いが続いており、
元禄2年(1689年)、ネルチンスクにおいて清露の国境が 確定した。
その国境とは、外興安嶺(スタノボイ山脈)からアルグン川のライン であり、ロシアは樺太方面に近づくことすらできなかった。


 当時、ロシアの国家財政の1/3はシベリアからの 税収でまかなっており、ロシアは大陸南下をあきらめ、 さらに東進を進めた。

 勘察加半島・・・日本の船はしばしば訪れており、 アイヌの居住地でもあった。アイヌの言葉で、「肉を乾かすところ」 なのだそうな。  
 いよいよ最初の日露衝突である。
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元禄2年といえば、冒頭の元禄13年に松前藩が 報告したその領土を蠣崎伝右衛門が調査した年で、樺太のことは カラト島として記載されている。
 この探検による地図は、現在の地図と比べても、樺太の 地名がほぼ正しく記載されていた。
 いた、というのは、この地図は関東大震災において 焼失し、原本が残っていないからである。

ところで、ロシアはいよいよシベリアの果てである、 勘察加半島を征服するため、
元禄10年(1697年)、アトラゾフは、 勘察加のはるか北部のアナディール城から、 120人の勢力でカムチャッカ西岸を南進。
 
 アイヌとの戦闘がはじまった。しかし次々と破れその砦は 占領された。
 カムチャダールの部落には和人も居住していたが、アトラゾフに モスクワに拉致され、日本語の研究に利用されたようだ。

 宝永3年(1706年)勘察加は陥落した。


千島以南のアイヌは、以後、カムチャダールを クルモセ・オヤタルと呼んだ。
 これは「アイヌの土地であるのに外国に服属した人」 の意味であるという。

勘察加半島の南の果てで、ロシア人は占守島を見た・・・・

 

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元禄13年(1700年)、松前藩は千島アイヌの戸籍を作成し 幕府に提出した。これを松前島郷帳という。
 この郷帳には、勘察加半島までが記されており、 江戸時代の学者は、勘察加半島までが日本領と考えている。

 一方、宝永6年(1709年)に北満州を調査したレジスらは、 樺太を発見した。
 以後、この島をサハリン島とヨーロッパでは呼んだ。




 宝永8年(1711年)、ついに千島にロシアは 囚人兵によって侵攻した。
占守島のアイヌは戦闘したものの、やがて降伏。
 この島を第一島と命名し、千島南下の基礎とした。

ロシア人は、アイヌにも重税を課したが、同一人物を 重複して記録したこともあり、その税負担はきわめて 重かったという。

 正徳3年(1713年)、幌筵島を占領した。
ロシアは人質をとるなどし、抵抗させないようにしたという。


 日本の学者は、ロシアの侵略者をアイヌ語を直訳し、 「赤賊」と呼んだのである。


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 ロシアの兵器は銃である。
 対するアイヌは弓である。
 ロシア人たちはアイヌを捕らえるとむちなど虐待した。
手を後ろに回し縛り上げた上で、鞭を打ち続ける。
体中が膨れ上がった遺体を海中に投げ込む。
 これがロシアのやり方だ! と、チョールヌイ。

アイヌはそれらを見せ付けられると、あるものは 子供や女性を連れて逃げ出し、あるものは激しく抵抗した・・・


享保14年(1729年)、日本船がロシア占領下のカムチャッカの ロパトカ岬に流れ着いた。
 船員の19名中17名はロシア側に殺害され、あとの 二人はペテルスブルグに拉致され、日本語教育係となる。



享保16年(1731年)、ついに勘察加半島では8年に渡る大反乱がおきた。
ロシア側は銃の力で鎮圧したのだった。


日本側が北方のロシア人南下を警戒し始めたのは遅きに失したが この頃である。

ロシアは1742年までに、北海道までの島々の連なりを確認した・・・

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寛保2年(1742年)、シエルチングは、黒竜江河口付近の測量の 帰り道、樺太の東岸、北緯50度付近に到着した。 この時、ロシア人がはじめて樺太に到着したのである。
 
1750年代になると、ロシア人はたびたび得撫島に現れ、 さらに北海道霧多布まで現れ、交易を求めたきた。
 彼らの所持していた地図には国後島までロシアの色が 塗られ、これに対し松前藩の役人は抗議した。



アイヌの住んでいる場所はたとえロシアの都の近くであろうとも 日本の領土だ。この地図は国後島までロシアの色でぬられているのは 承知できない。
 昔から蝦夷が千島と言い伝える島々は、ことごとく松前家の 領土だ。

交易を断り、宝暦4年(1754年)、「国後場所」を開き、 松前藩は国後島を直轄した。

ロシアはまだ占領こそしていなかったものの、北海道の際まで 迫ってきていたのである。


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一方、樺太方面はというと、ロシア側の接近もなく、 幕府による開拓・調査がすすんでいた。
 寛保2年のロシアの接近は偶然的なものであり、 その後領海を意識したのか、海岸からは一定距離を とって南下している。

 1747年から51年にかけて、松前藩は漁場開拓の ためにしばしば樺太を調査しており、 宝暦2年(1752年)には大泊ほかに漁場を開いた。

しかし、千島は波乱含みであった。
明和3年(1766年)、ついにロシア人は得撫島に居住を することに成功したのである。
 得撫島はラッコが多く棲み、それらを獲っていた ようである。しかし彼らは自分たちで捕まえず、 アイヌを使った。しかもアイヌへの虐待・生活用品の 破壊を行ったため、アイヌは得撫島から逃げ出さざる を得なくなった。
 ロシア人は鯨の油取なども行っていたが、 アイヌはラッコが生命線だった。
 なぜならラッコは和人との交易の主要品目で あり、貴重な生活用品を得る手段だったからだ。
 しかもラッコは得撫島でしか取れなかったようである。

ちなみに、またチョールヌイなのである。
ここでも過酷な使役を行い、 さすがにロシアでも問題になったらしく、後に刑事罰を受けているようだ。

事件は明和7年(1770年)に起きた。
 

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択捉島のアイヌはラッコを獲るため、ロシア人の 目をさけて得撫島沖で漁をした。
 ところがロシア人に見つかったようである。

ロシア人たちはアイヌの村まで追いかけて ラッコを引き渡すよう要求。
受け入れられないとなると、鉄砲を放ち襲いだした。
ところが干潮であり思うように逃げることもできず、 弓矢や脇差で応戦し、命からがら択捉島に逃げた。

アイヌたちの怒りは激しくなった。
ロシア人たちは漁を行ったアイヌの家を襲い、 財産をも強奪したのである。

アイヌは、

ロシア人を見かけたら皆殺しにせよ!

と誓った。

そして明和8年(1771年)、択捉島のアイヌはアイヌ世界で 考えられる最高度の戦闘準備を行い、得撫島へ出撃した・・・

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アイヌは、まず得撫島オカイワタラの ロシア人と飲むふりをして酔わしたあと、 夜になって鉄砲などの武器を奪い、槍で刺し殺した。



 さらにワウナウにおいて、金鳳花の毒矢などで急襲し、 殺害。残ったロシア人は船で逃げ去ったという。

 同じ頃、磨勘留島にも渡り、やはり夜になってから 武器を奪い、刺し殺した。
殺害したロシア人は合計21人といわれるが定かでない。




 ロシア人がこの島に留まったのはラッコが目的である。 ロシアではラッコ島とも言われているようで、得撫島 は、ロシア人南下の最先端であった。やがてロシア人は ここに定住し始めるようになるのだ・・・・

 同年、ハンガリーのベニヨフスキーは、ロシア人の 千島南下を警告、次第に幕府や学者は北方に対する国防を 唱えるようになる。
 
 安永元年(1772年)、松前藩は樺太の漁場を開発すると 同時に、アイヌに漁法を伝えた。

当時の千島の人口は1000人程度あったと推測される。
ロシア人が100人程度で南下したとしても、かなりの 脅威であるのだ。

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学者たちは、北方に対する警戒を書で表した。
特に天明元年(1781)年の赤蝦夷風説考は有名である。
また、寛政3年(1791)年、海国兵談では、 アイヌとの早期の一体化を唱え、成し遂げなかった場合 ロシアに侵略される危険を説いた。

さて、そんな天明4年(1784)年、幕府・田沼意次は山口鉄五郎高品らを 北方へ派遣した。
 調査先は、国後・択捉・得撫島と樺太・宗谷地方である。
 この調査ではじめて、ロシアにおいて日本人が日本語を 教えている事実を知る。

・・・なんか北朝鮮を思い出したのは市長だけか?(--)

樺太は能登呂半島の白主に渡り、多蘭泊や樺太名寄などを 巡視した。
後にこの調査に参加した最上徳内は、蝦夷草子において、 こう記した。

東蝦夷地の島々、太古より松前所在の島の属島にて、 日本種類の蝦夷人住居すれば、すなわち日本境内に疑いなし。 しかるに近来、赤人(ロシア人)ども、年をおって多く渡り来り、 二十一島を押領し、諸産をとり租税とす。

最上徳内は侵略された千島の奪還を説いた。
これより日露は軍事的対立を強めるのである・・・・