樺太県史  第2章  1792~1811

宗谷をたつ日を忌日とせよ。



ロシアが千島から北海道に接近しつつあるこの危機。
樺太はまだ安泰であったが、そこに現れるのも時間の 問題となってきた。
幕府は北方をいかに防衛したのだろう・・


 天明2年(1782)、伊勢を発った神昌丸は、江戸に向かう途中、 海難により 漂流8ヵ月。アリューシャン列島に漂着した。
 流木をあつめ再び船を建造し、カムチャッカに渡ったのは 天明8年(1788)8月のことである。
 彼らは凍傷や栄養不良で足などを失いながらも、 オホーツク港からヤクーツク、イルクーツクと移動した。

 一行の代表 幸太夫

 小国日本は、無欲無防備。太平の夢をむさぼっている時、 蝦夷地に隣る北方では、ロシアがカムチャッカから アリューシャンにまで兵舎を建て、税務署を置き、現地人 に租税を課し、教会を立てて教化悦服させている。
 しかるにこの事実を知っているのは、ロシア領内を 遍歴し目撃した我々のみ。故国に帰り、報告せねばならぬ。

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彼らはエカテリーナ2世の決定により帰国することと なった。船の名はエカテリーナ2世号。
寛政4年(1792)10月、根室に戻った。
 ラックスマンは通商を幕府に求めたがこれは空振りし そのまま帰国する。

11代将軍家斉は、幸太夫の話に興味深く聞き入った....。

そのころ、樺太では、黒竜江河口の山丹人が、アイヌに対し 物貸しを行った。 そしてその後支払いができないとなると、 負債のかたに子供をつれていき、男の子は奴隷にされ満州地域で 働かされ、、娘は妾にされるなどの行為に及んだ。
 アイヌは松前藩に対し、これらの対策を要望したため、 寛政2年(1790)、白主に交易所、本斗と大泊に荷物番屋を設置。
白主に役人を配置した。
 さらにアイヌの債務は幕府が支払った。

樺太アイヌと南樺太に幕府の影響力が強まっていた・・・



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 北方は騒然としていた。
ロシアが北方からわが国に迫っているというという報告が 多数幕府に寄せられていたからである。

 寛政10年(1798)、幕府は津軽藩に対し、函館への出兵を 命じた。さらに同年、幕府による北方視察が大規模に実施された。


 この時、近藤重蔵により、「大日本恵登呂府」の標柱を 択捉島に建て、その領有を示したのである。
 
 ・・・おそいよ~(T.T)/

 この調査は大規模なもので、幕府による北方対策が 本格化するのであるが・・・

 実は寛政7年(1795)には、ロシアはついに得撫島に居住し はじめていたのだ。択捉の標柱がたったのは既にぎりぎりの 時点だったといえる。




 寛政11年(1799)、北方調査の結果、幕府は次の通り 結論した。

蝦夷地は、周囲を海に囲まれ、広大であるため、城砦を 築いて守ることができない。したがって仁政を敷くことで 異国に乗ぜされないようにする。
 防衛のため、弘前、盛岡の2藩の兵力を要所に配置する。

この方針により、両藩は500名の兵力をそれぞれ 派遣、盛岡藩は根室、国後、択捉に勤番所を設置。

弘前藩は砂原、択捉に勤番所を設置した。

 享和元年(1801)、富山保高らが得撫島に「天長地久大日本属島」 の標柱をたてたが、ロシア人は既に17人が居住。
 さらに幕府は積極的な退去施策をとらなかったため、得撫の 領有は次第に雲行きが怪しくなってきた。

寛政5年(1793)、また日本船がアリューシャン列島に流されていた。
彼らはその後帰国することとなり、 使節のレザノフとともに日本へ帰ってきたのであるが、 レザノフには日本との通商を行う使命をもっていた。
 ラックスマンが来日したときは通商が成功しなかったが、 なぜか幕府は、通商の条約を望むならば長崎への入港を認めると いう許可証を与えていたのである。

文化元年(1804)、レザノフは漂流者と共に長崎に入港した・・・。

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 レザノフは、贈り物と一緒に通商を望む国書を幕府に 渡した。しかし幕府はあくまで鎖国と終始し、新たな国家と 貿易することはない。と突っぱねてしまった。
 レザノフはこれに大変怒ったといわれている。

 ところで、レザノフにはもうひとつの使命があった。

 それは、樺太の調査である。・・・

文化2年(1805)、レザノフは樺太に向かった。
宗谷海峡では伊勢丸が樺太へ物資輸送中であったが、 レザノフはこの船を追跡し、今にも迫る状態になったのである。
日本の帆船に迫るロシアの黒船。
 伊勢丸は進路を変えて全速で大泊へ逃げた。

レザノフは深追いせず、留多加に上陸した。
 ここには祥瑞丸が貨物積載中であった。
そこへレザノフたちが接近し、日本側の役人はどこにいるか 尋ねたのである。その後、留多加の番屋に向かっている。

 何を調べているのかわからないが、その後南樺太最大の 街、大泊(久春古丹)に上陸した。
ここには十数隻の大型の日本船と、小型の漁船が多数、碇を おろしていた。
 ここには大きな倉庫街や住居100棟以上。
 そして勤番所などがある。まぎれもない樺太最大の街である。
視察を終えたレザノフたちは樺太の占領・侵略について 書をまとめた・・・。


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 レザノフの一行(船長の書とされる)がまとめたものには 概ねこう記されていた。

 亜庭(大泊)の占領は、少しの危険もなく実行できる。
 日本人には武器もなく、反抗する気すら起こらないに 違いない。ここを異国に奪われても、簡単には日本は取り返すことが できないだろう。日本人は勝てないからだ。
 日本の全艦隊が1万の軍で攻撃しても、我々の小艦艇2隻に60人の 兵で打破できる。

レザノフは帰国後、皇帝アレクサンドルに樺太侵略を進言した。

樺太に城砦を築き大砲を装備して占領すれば、北海道の住民は 交易に応じるであろう。日本の船舶は遠洋に航海できない構造だ。
ロシア軍によって撃破・拿捕はたやすく、これを繰り返せば 日本人は不安になり、交易を認めるに違いない。

皇帝は特に返事をしなかった。

しかし、もはやレザノフは交易を断られたことを私怨しているとしか 思えない行動に出た。

フボストフに樺太攻撃を命じたのである。・・・


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 レザノフは命じた。

樺太大泊にて、日本船を破壊し、捕虜にする。
日本の商店は略奪したあとに破壊せよ。
日本の役人に樺太はロシア領である。日本人の渡航を禁止する と伝えよ。
 原住民はロシアの皇帝に服従させること。


文化3年(1806)秋、フボストフは60人の兵力で、大砲24門を 装備した艦、ユノナ号で樺太に上陸した。
 運上屋の番人は、酒食をふるまいもてなそうとしたが ロシア兵はそれらを床にぶちまけた。
 ロシア人は「商い、商い」と連呼したという。
しかし、異国との交易が禁じられていると手まねで回答 するや、ロシア兵は銃を撃ちはなって威嚇したうえ、 番人たちをユノナ号に拉致した。

 そして、倉庫から米300から600俵を奪い、弁天社、運上屋 など11箇所に放火し大泊の町は猛火につつまれた。
ロシア人は弁天社の鳥居に真鍮でできた板をとりつけ、 樺太の占領と、先住民はロシアに服従した、と意味する 内容を記した。

 大泊の街はほぼ壊滅した。

 文化4年(1807)、春、松前藩にこの攻撃の詳細が伝わった。

松前家家老 松前左膳

樺太はわが藩の領土である。ロシア人の残した真鍮板を そのままに差し置くべきでない。

123名で樺太に急行し、ロシアが残した、真鍮板や書状などを 回収した・・・


ロシアの侵攻はこれにとどまらなかった。
第二次侵攻を企てたのである。

フボストフはカムチャッカのペトロパブロフスクで補給すると、千島を南下。
大泊で捕らえた番人の捕虜を乗せて、択捉島に向かっていた。


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ユノナ号・アボス号は択捉島の内浦(内保)に上陸。
番屋の番人は酒食でもてなそうとしたが、食器を砕き、 番人を船に拉致した。
さらに倉庫を襲い、米をはじめとする物資を略奪し、 町を焼き払った。

 
 番人の一人は、紗那に逃げた。ここには、南部藩と 津軽藩の300の兵が駐屯している。
 対ロシア戦の会議がくりひろげられたが、意見はなか なかまとまらない。

8日後、紗那の沖合い2キロにアボス号は現れた。
隊長・戸田又太夫は、日本側は先制攻撃はせず、白旗を 振って攻撃意思のないことを示すよう命じた。

が、ロシアにはお構いなしだった。
白旗を振っている者からロシア人は抹殺した。
ロシア兵は大砲を放ちながら上陸。

ここに日本側も戦闘を決意した。
ロシアは紗那の倉庫を占拠し、ここから攻撃を始めたため、 日本側も砲撃。するとロシアは倉庫に放火し船に一旦 引き揚げた。そして、船からの砲撃が夜になっても 続いた。
 万事休す。日本の弾は底をついてしまった。

紗那にはあの間宮林蔵もいた。
林蔵はロシアの暴虐ぶりに怒りに震えた。

間宮林蔵

「堅く、この紗那を守りロシア人と決戦せよ!!」



しかしロシアの攻撃は激しく、有萌、留別と 後退が余儀なくされた。
 隊長・戸田又太夫はこの敗戦の責任をとり 有萌において切腹した。
戸田又太夫の墓は後に有萌に設けられた。


ロシアは紗那を再襲撃し、残されていた食料など 物資を略奪。紗那に火を放った。

紗那は壊滅したのだ・・・



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この襲撃。函館に一報が入ったのは、この時代としては 超高速な8日後である。
 津軽・南部・秋田・鶴岡の各藩に応援を命じた。

配備は次の通りである。

函館 933
砂原  30
浦河 100
厚岸 130
根室 130
国後 380
松前 781
江差 200
宗谷 230
斜里 100

総計 3114名の防衛軍である。
国後では、夜も明々と明かりをつけて、大軍に見せるよう な作戦もとられた。
 また、アイヌは毒矢などを海岸にしかけ戦いに備えた。

択捉を離れたユノナ号は得撫島を経由した後、
再び大泊に上陸した。
廃墟だった。
アイヌたちはロシアを恐れてどこかへ隠れてしまったようだ。

こんどは留多加に向かった。
ロシアは町の番屋や倉庫をはじめとする施設を焼き払った。
そして松前の商船・宜幸丸を砲撃し、米500俵をはじめとする積荷を 略奪して船に火を放った。
 稚内でも禎詳丸を襲い、積荷略奪と放火。

そして、利尻島に接近。
万春丸を略奪破壊。
誠竜丸も破壊。

・・・・・。(´`)

ロシアは上陸し、番屋と倉庫に放火、いよいよ ロシアは「犯行声明」を行うのである。

概ね、次の内容であった。

ロシアは隣国であり、貿易を申し出たなら、友好国として 日本は貿易すべきであった。しかし、長崎に派遣した使節 には返事もしない。これに怒り異変を起こしたのだ。
 貿易を許可しないため、ロシアの力を見せたのだ。
これでもなお、承知しないのであれば、樺太・千島を奪うだろう。 そこにいる日本人は追い払ってやる。
 ロシアの要求を受け入れるならば、仲良くしたいが、 受け入れなければ、たびたび今回のような異変を起こす。

松前奉行殿へ  ロシアより。



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幕府は、度重なる北方の危機に、千島(東蝦夷地)を幕府直轄としていたが、 今回の事件をきっかけに文化4年(1807)、樺太(西蝦夷地)をも直轄にした。

宗谷守備の230人は大泊と留多加に別れ展開した。

 文化5年(1808)、1月、会津藩が樺太に出兵し、 706名の部隊となった。
 大泊には砲台も設置され、時折試射し、有事に備えた。
4月には日本の軍船5隻が大泊に到着。
そして、1ヶ月かけて陣地を構築したのだ。

が、何も起こらなかったので、幕府は 1100人体制に縮小し越年した。


北方事情を明らかにするため、幕府は松田伝十郎に樺太調査を 命じた。
 その目的は、日清の国境を明確にし、樺太の領有を明示することにあった。
 また、そのために樺太が大陸の半島であるか島であるかを今一度確認が急がれたからである。



松田伝十郎は家族に遺言した。

樺太の奥地で命を落とすか、露艦に囚われるかして、年を 越しても帰らなかったならば、宗谷をたつ日を忌日とせよ。


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松田伝十郎は樺太の西岸、間宮海峡沿いに北上、 北緯51度55分ラッカにおいて北進が困難となったが、 対岸等の状況から島であると推定し、日本の樺太領有を示す国境標柱を立てた。
※南北を国境とする説もある。
 また、。
遅れて、間宮林蔵も到着した。林蔵はさらに北緯53度15分 まで進み、海流から樺太が島であると結論付けた。
 彼は、フボストフとの戦いで、ロシアの国境を知ることが 重要であると考え、大陸に渡り、清国役人から情報を集めたのだ。

 文化4年(1807)、幕府は「ロシア船打ち払い令」を出した。
ロシアには強硬策をとることとしたのである。

 そんな文化8年(1811)、ロシアの軍艦ディアナ号が国後島に 現れた。再び日露両軍の砲撃戦が行われたのである。
 しかし、今度はロシアの思うようには行かなかった。
 日本側の火力は圧倒的であった。幕府は艦長のゴローニン を捕らえ、松前に幽閉した。
 翌年ロシアは日本の商船を捕縛し、高田屋嘉兵衛を カムチャッカに連行したが、彼との人質交換と、嘉兵衛自身の 活躍により、事件は解決し、幕末まで日露間は平穏であった。


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