樺太県史  第3章  1849~1854

界を分たす是まで仕来の通たるへし


日本は江戸時代、樺太を領有していなかったのであろうか
ことあるごとに、雑居地であったと記されるその時代、
いったい何があったのだろうか。

読んでも解決しないかもしれません。(^^;
でも、考えるきっかけにはなるかもしれません・・・

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1849年、ロシアの将軍ネベルスキーは
北樺太最北端にロシア国旗をたて、ロシア領を宣言した。
 長きに渡った、日本の北方の領有は、揺らぎ始めた のである。
江戸幕府による日本の平和の時代も残すところ わずかとなっていた1853年、
ロシアの東洋艦隊司令長官プチャーチンは 長崎に現れた。

 ロシア全国一統の主ニコラス第一世、此書簡を大日本の 執政に呈す・・・
 貴国最北の極界はいずれの島であることを約定するは、 現在の急務である。  ただし、右境界を定めるのは、樺太南部にも行う。
ロシア帝国の領土は、その大きさ、世界に冠たるもので、 更に地を増し、境を広める必要なし。
 しかし、ロシア臣民当然の権利はこれを守らざるべからず 、かつ両国の平和と両国臣民の平和なる交際を保つには、 両国の境界を確定することを良法とす。


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幕府は筒井肥前守政憲、川路左衛門尉聖漠らを 長崎に派遣することとなった。
 老中阿部正弘からの指令は以下の通りである。

開国通商の義は、能う丈け其の時機を延さしむ可く、 又、北陲境界の件は、樺太において北緯50度を厳守し 千島においては択捉島以南全有を目的とせよ。


川路は日記に記した。
往昔、日本の一方は千島の北東カムチャッカに達し、 又一方は樺太島の北に到りしものなるに、いつしか ロシアの蚕食するところとなり、ああ、今や日本の 国力をもってこれを回復することは絶望なるごとし。
 せめて、オランダ新図に示す北緯50度をもって樺太に おける両国の境界に定めん。

長崎に旅立つまさにそのとき、ロシア船が樺太大泊に あらわれ、武装した兵が上陸し営舎を築き始めたのである。  松前藩は兵を派遣しようとしたが宗谷海峡の荒天により 進めずにいる・・・

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 その兵団はネベルスキーによるもので、
プチャーチンの交渉を有利に進めるため、兵営を 築いたようである。
 松前藩とは軍事衝突一歩手前の様相を帯びた。

ロシアは73名の部隊。

日本側・・大泊の守備兵力85名
   ・・函泊の守備兵力77名


一方、プチャーチンは幕府に文書を提出した。
その内容を要約すると次の通りとなる。

樺太のアイヌは既にロシアの支配下に満足している。
日本人は亜庭湾で生活したいなら、ロシアの支配下に おいてやってもいい。

遅れること3ヶ月、川路は長崎に到着した。

この時、川路らは、プチャーチンに対し、樺太の境界を
北緯50度に定める意思はないか 尋ねると、
日本人の住んでいるところや、幕府の視察した場所は ロシア領とは思わない。 と回答している。


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ロシアはクリミヤ戦争の最中であった。
プチャーチンによると、樺太が日露以外の国に占領されぬ ように、大泊に兵営を築いたのだという。
しかし、その真意は分からない。
ロシアとしては樺太はロシアの属領であり、日本人は 最近やってきて経済活動をしており、その南方にわずかの 日本人が居住しているとの主張をしている。

1854年1月、幕府も、その主張をプチャーチンに 返した。

樺太の境界を画定し、境界が定まった後は大泊の兵を 速やかに引き払うべし。
 樺太はわが国の所属と考えていたところ、今回の会談 で、南方のみが日本の所属といわれたが、外国の地図には およそ50度のところで境界となっている。
 調査にいったものが帰るまで、境界は定められない。

しかしプチャーチンは、樺太の実情をしらぬ国が 作った地図であると一蹴した。
 ロシア人は50度より南方に多く居住する。
 日本人は南端のみである。  と。

プチャーチンは交渉が進まないと見ると長崎を去った。


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しかし部下のポシェットが・・・
(1854年)6月下旬、大泊に向かう。
ここで境界を定めたいと思う。
領土確定に猶予できないため、 もし、筒井・川路が現れない場合、 樺太はロシア領とする。

との文書を残したのだ。
派遣しなければ、樺太はすべてロシア領になってしまう。

ただちに幕府は委員を樺太に派遣したが なぜかロシア側はあらわれなかった。

・・・ロシアが現れなければ全島日本領とする。
と返書しとけばよかったのに(^^;;


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そのころプチャーチンは、ニコライエフスク(尼港)に 隠れていた。
 イギリスとフランスの連合艦隊からの攻撃を避けて いたのだ。
 8月30日、函館に現れ、謝状を提出した。

われ長崎にいたりし後、日本政府の貴官に告げしは、 2ヶ月を経て亜庭港におもむくべしとなり。
 しかるに、ロシアとイギリス・フランスとの不和 ありしにより、わが国の海浜を去りがたきに及べり。
 爰をもって、われ貴官に、函泊村より、以前の趣向 を変ずることを告げ、この主意をあらかじめ告げる ことを得ずして、日本の役人樺太に至り、遠路の苦労 を除かざるは、気の毒の至りなり。

 9月、大阪は天保山にプチャーチンは現れたが 大阪城代によって下田に向かわせた。
 幕府は筒井・川路の二人を再び応接係とした。
 国境をどこにするかという難問。

二人はこう考えている。
 樺太の日本領は、その南方50里ほどであろう。
 幕府は会所を設けているが、ここを久春古丹と 呼び、ロシアは亜庭港と呼んでいる。
 ここまでは明らかに日本領であろう。
問題はそこから奥地である・・・・・


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11月4日、地震と津波がおこり、 プチャーチンのディアナ号は損傷した。
その後伊豆で修理することになったが、その間に 座礁、そして沈没した。
 幕府はプチャーチンに二隻の西洋風の船舶を建造し この窮地を救うのである。

12月14日、下田での交渉が再開された。

老中 阿部正弘は、
ロシア人は最近になって現れたのであって、樺太島の中に 国境を設けるのはおかしい。
樺太全島を日本領とするよう努力せよ、命じていた。


日本側-択捉島はもちろん、樺太もアイヌの土地であり
    日本の領域であることに疑問はない。

ロシア側-交易を許可するなら、択捉島を日本領と認めて
    よい。しかし樺太は大泊以外はロシア領だ。


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川路はアイヌ人がおおむね北緯50度付近より南に生活しており、 地名もアイヌ地名ばかりであることを松本・村上らの調査結果で 知っている。
 少なくとも、黒竜江の口までは日本領であり、大泊のみとの ロシアの主張は考えられないと主張した。

川路は日記に記した。

五十度に到り、スメレングル オロッコなど居る処と、僅か一里 許にて、人種の様子断然として、蝦夷と韃靼の風俗別段につき、 右を以て境とせんと色々に申すも聴入ぬ也

12月21日、日魯通好条約が結ばれた。
日露間の始めての条約である。

「カラフト」島に至りては日本国とロシア国との間において 界を分たす是まで仕来の通たるへし

これは雑居地とか共有ではなく、いままでどおり 日本の(アイヌの)土地はこれまでどおりの扱いである と解したのであろうが、禍根を残す決定ではある。

ちなみに千島は択捉島までを日本領とした。
余談であるが日本側は得撫島を中立地帯とする 主張をしていた・・・
ここでも後退を余儀なくされている。

が、後の明治政府の対応を考えれば、立場の弱かった 幕府がここまで抵抗したことをむしろたたえるべきだろう。  この年、日米和親条約が結ばれ、白人による極東支配が 迫っていたのである。

後にプチャーチンの秘書は川路についてこう記している。

川路は非常に聡明であった。
彼は私達自身を反駁する巧みな弁論をもって知性を ひらめかせたものの、なお、この人物を尊敬しないわけには いかなかった。

川路は江戸幕府崩壊時、切腹し、その生涯を終えた。


時は、文明開化の音を告げていた・・・明治初年のことである。