樺太県史  第4章  1792~1811

条々を仮に議定せり


プチャーチンも帰ったし。
樺太もこれまでどおりのしきたりでやっていける。
めでたし、めでたし・・・・
それは、たったの2年後のことであった。


そんな1856年。お隣の清では、アロー号事件が おこった。
 イギリス・フランスは広東・天津を占領。
 さらに太平天国軍の攻撃で窮地に陥っていた。
すでにロシアは黒竜江河口にニコライエフスク(尼港) を建設。
 いよいよロシアの東アジア征服が現実味を帯びてきたのである。

ロシアは1856年(安政3年)、北樺太のホエに、火薬庫と砲台を 建設しているところを箱館奉行所の所員によって発見 されている。

そして1857年(安政4年)・・・・ロシアのロタノシケは、その 部下を久春内と樺太名寄に居住させた。
 箱館奉行支配調役の佐藤桃太郎は樺太名寄でロタノシケ と会談。先の是までのしきたりどおりとする条約に違反 している、と抗議した。
しかし、ロタノシケは 国王の命 と繰り返すのみだった。

ロシアは歴史的にまず軍を駐留、そして侵略するのだ。

ロシアのムラビヨフは、1858年(安政5年)10月、 清国とアイグン条約を締結。
黒龍江省を割譲させ、沿海州は共有地とした。
 大砲を打ち放ち、清国の全権を脅迫したのだ。

その情報は幕府にも伝わり、幕府は震撼した。



        ☆×○


一方、日本側もただ指をくわえているわけではなかった。
 1855年(安政2年)、福井の大野藩は蝦夷地開拓 の計画に参画することとした。
 
 家老 内山隆佐

蝦夷地は辺境のことだから、一度失えば回復は難しい。


彼は藩主に北方防衛を説いたのである。

1857年(安政4年)藩主早川弥五左衛門は北樺太の幌子谷 まで調査、翌年、来知志から幌子谷に家来と領民を 移住させた。
 この頃になると、ロシア人は南樺太で事件を頻発 させていたため、勤番所などが多数設置され、  伊達藩大野藩を中心として開拓と防衛がすすめられた。


1859年(安政6年)2月、ついにロシアは真縫に 兵営を築いた。樺太に明確な国境を設けていなかったため、 次々とロシアはその侵略の魔の手を広げた。
 そしてロシアは清国に行ったものと 同じ手法で日本を脅迫するのである。
1859年(安政6年)7月、ムラビヨフは軍艦7隻を 引き連れ、品川に入港したのである・・・
 

        ☆×○


 ムラビヨフは言った。その態度はとても傲慢で あったと言われている。
 
 サガリン(樺太)の亜庭港には日本人が住んでいるが、 アイグン条約で黒竜江の一帯はロシアのものとなった。
 アムールとサガリンはともに黒竜江の意味である。  したがってサガリンはすべてロシアのものだ。
 幕府は地名がロシアのものではないことを手がかりに これに対し反論した。
 するとロシアは樺太が国防上ロシアのものにしたい。 ・・・というのだ。
 国境を宗谷海峡とすれば、漁業や居住の権利は 今までどおり認める。と付け加えた。

 つまりこうだ。
 日本は弱小国家である。樺太を界でへだてると、 その日本側の部分が他の強国に奪われ、侵略される。  そこからロシアが攻撃される・・・という論理だ そうな。

幕府は答えた。

 下田でのプチャーチンとの会談において、北緯五十度 を境界とする交渉をした。
 我々は樺太全島が古来からの日本領土だと確信している。
 しかし、下田では両国の雑居とした。この点からも 全島ロシアにはできない。


 再び北緯五十度を国境とするよう提案したのだ。

 北緯五十度・・・それは日本の絶対国防圏なのである。

        ☆×○


会談は不調のまま8月9日ロシア側は品川を離れた。
幕府はけっして樺太を譲歩することはなかった。

村垣範正

もし、樺太全島を日本が譲ったならばイギリス・フランス などの列強諸国は、日本に他の領土割譲を要求するであろう。  ロシアは、樺太全島を要求することに対し、まだ強攻策を とらないのは、日本の統治実績を知っているからだ。

幕府は品川から離れたムラビヨフが樺太に再びくるかも しれないので、樺太勤務の役人には彼らと争わないよう、 そして開拓をすすめるよう指導した。
 また、ロシア側が北緯50度より南下するならば、日本側も 50度以北へ進出するように指示した。

この頃

日米修好通商条約(1858年7月)をはじめとする イギリス・フランス・ロシア・オランダとの間に
(安政五ヶ国条約-安政仮条約)・・いわゆる不平等条約 を締結している。

尊皇攘夷運動・・・幕府は急速に不安定化していった。

しかし幕府は決して樺太をあきらめなかったのである。




そんな中、萬延元年(1860年)、清露共有だったはずの
沿海州は、とうとうロシアに奪われていた・・・・





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安政五ヶ国条約には江戸や上方、神戸などの重要地域が 開かれることが要求されている。
 倒幕の動きが広まることを恐れた幕府は、文久元年(1861年) サンクトペテルスブルグへ役人を派遣した。
 市場開放の延期交渉が主だった目的だったが、そのなか には、ロシアとの国境を定める使命も持たされた。

 この時、幕府はロシアとの国境を北緯50度と定めるよう 訓示した。 

 この派遣を決定した老中 安藤信正は文久2年(1862年) 坂下門外で水戸藩浪士に襲われて負傷している。

 7月19日、イグナチーフと松平石見守康直の会談が ペテルスブルグにおいて開かれた。
 
 松平石見守康直は、この会談に至るより前、世界各国の 地図により樺太の国境を調べた。そのすべてが北緯50度 を境としていたことをつかんでいる。

 さて、会談は予想されたとおり、
イグナーチフは樺太全島をロシア領だと主張してきた。
 松平石見守康直は、各国の地図について、そしてロシアの 地図についても50度が境目になっている事を指摘した。

 イグナーチフは外交に長けている。清国から広大な領土を 割譲させたのも、彼の功績のひとつである。

 彼は返した。
商品として売られている地図など、国境交渉の根拠にならない。
・・・まさしく正論である。(--:

ところがである。翌日イグナーチフはこれぞ正しいロシアの 領土、と一枚の地図を示した。
 南樺太の上にロシアの色を塗ったお粗末なものである。

松平石見守康直はついに我慢の限界に達した。



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既製の地図の上にさきほど塗ったかのようなその 地図は若い松平石見守康直を感情的にするに十分な応酬だった。

松平石見守康直

かような地図はいまだかつて見たことのないものである。 樺太は全島ロシアと同じ青く塗られてあるが、その痕跡は まだ乾いておらず、濃淡も相半ばしている。
 貴国は、世界の大国であり、これに対して日本は小国である。 だが小国ながら日本は善隣のよしみを修めるため、かように 使節を送っているのである。
 しかるに貴国は鷲梟の食欲を逞しうして、小国の領土を 蚕食するの野心を抱いている。
 大国に似つかわしからぬ哀れむべきものである。

 世界万国に通用する地図を持ってみな虚妄だという。
 ・・・それもよかろう。

 自分は改めて質問する。
 貴国の天文台は世界一と称され各国から訪問し学ぶものも 多いと聞く。しからば天文台の備え付けの機械や図面は寸分の 誤りもないはずである。天文台の図書を信じてよろしいか?


イグナーチフ

まさにそうである。天文台備え付けの図書に偽りがあるはずはない。


・・・松平石見守康直の予定していた回答が得られたのだ。
そして松平は・・・


        ☆×○


 しからば天文台に同行願いたい。馬車が表で待っている。
  松平が急かせると、イグナーチフはなぜ天文台にいかねばならないのか たずねた。
 
 松平石見守康直

 私は各国で作られた北緯50度を境とする地図を数葉携えて いるが、ペテルスブルグ到着時に貴国製の北緯50度を境とする 地図を買ってさらに天文台も見てきたのだ。
 天文台の地球儀は3台ともいずれも樺太の境界を北緯50度と している。


・・・・・・・。
 イグナーチフはしばらく言葉が出なかった。
 皇帝陛下に改めての会議を開くようイグナーチフは約束し

その翌日。

 イグナーチフ

 貴国の主張する北緯50度は山岳の折り重なる大森林で、 国境標を立てることすらかなわない。
 北緯48度に川がある。
 これを国境とするならばただちに条約を結ぼう。
 これはロシアが一歩譲った提案である。



48度言えば真縫と久春内を結ぶ樺太の最も細くなった部分 である。和人が古くから居住していたのもこのあたりである。
松平は悩んだ。これでは緯度にして2度、失うことになる。
 しかしこれは国境を定めるまたとない機会なのだ。

 松平は北緯48度を国境とすることとし、調印することに したのだ。


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竹下下野守と京極能登守はこれに反対した。

 50度を一歩も譲るなと言われている。
思うに、寸土といえども皇土に非ざるところはない。
 緯度において2度の地を失うことは、幕府が皇土を 外国に奪われることになる。
 われらは絶対に承諾できない。

松平石見守康直

もしもこの機会を失ったなら、ロシアは提案した条件を 変える恐れがある。
 ロシアは樺太全島を領有しようとしているのだから、 今後国境問題で紛争が起こったとき2度の損失には とどまらないだろう。
 責任は一切自分が負う。

・・・しかし2度の土地を失うことは、わが国に大きな 損失となる。2人は同意しなかった。
そのため、国境は確定せず、日露双方から樺太に委員を 派遣・検分し、国境を定めるとした、条約を締結した。


文久3年(1863年)、ロシアは約束どおり委員を派遣。 幕府に委員を派遣するよう申し出てきた。
 
ところがである。幕府は委員を派遣することなく ロシア側はペテルスブルグの条約を破棄したものとみなす。
とし、去っていった。

なぜ派遣しなかったのか・・・ 時は薩英戦争の最中。
馬関戦争、公武合体派、尊王攘夷派、生麦事件賠償、 幕府には北方への余力はなくなっていたのだろうか。

幕府による国境画定の最後の好機はこうして失われたのである。

        ☆×○


元治元年(1864年)
小出大和守秀実

今や樺太のロシア人はアメリカと交易をはじめた。
速やかに国境を定めなければロシア人の南下を差し止めることは できまい。
 現在、長門には事が起ころうとしている。幕府に北方のことに 配慮する余裕はあるまいが、もし顧みることなければ樺太はロシア 領となろう。
 松平石見守康直の交渉のようにたとえ数歩譲って48度に縮めて も、速やかに国境を確定することが上策である。
 楠渓(大泊)と真岡の港を貿易港とし、樺太のわが国の領有を世界に 示せば、ロシアの野望を絶つことができる。
 これが樺太を保つ最上の策である。


幕府は小出大和守秀実をペテルスブルグに派遣した。
彼は北緯48度で妥協するつもりでいた。

しかし・・鉄は熱いうちに打つべきであった。
ここでの交渉結果は、後の日本人の樺太に対する 意識に誤解を与えるのである。


慶応2年12月(1866年)ペテルスブルグにて・・・


        ☆×○


ロシア全権スツレモーホフは、樺太に国境があると、日本側の 領土が強国に奪われるという論理を再び持ち出した。

小出大和守秀実

樺太は、日露両国人の雑居の地と条約を結んでいるにも かかわらず、貴国はここに兵を駐屯させ、全島領有を主張する ことは、甚だ専横な処置である。
樺太は元来日本領である。
だからこそ文化年間フボストフが入寇したとき、貴国は彼を 捕らえ、処罰したではないか。 
 各国製の地図には北緯50度をもって日露の境界としている。 だからここを境としたいが、一歩譲って、西は鵜城、東は突岨 を境としてもよい。


 ここでついにロシアは領土交換の案を提示してきたのだ。

樺太の領有権を得無島とその周辺の小島をあわせたものと 交換せよ、というのだ。
 もともと得無島というのは、両国の中立地帯としたいと 日本側が提案していた島である。
 これが承諾できない場合は是までのしきたりどおりという。
 大変不平等かつ馬鹿にした提案である。

小出はついにイグナーチフ会談のロシア側提案、 北緯48度の真縫を国境とする妥協案をのむと譲歩したが もはやロシア側にその気はなかった。

慶応3年2月、日露間樺太島仮規則が作られた。


大政奉還まであと9ヶ月であった。