樺太県史  第5章  1868~1875

ああ、樺太は放棄せられたし・・


千島・樺太交換条約・・・サンクトペテルスブルグ条約。
有名な条約である。これは平和裏に領土交換され、 国境が画定されたもの・・・と言われている。

平和?さて・・・

千島・樺太交換とはどういうものであったのだろうか?

時は、文明開花の音がする明治のはじめにさかのぼる。





江戸幕府は、樺太防衛に力を注いでいたが、 ロシアと江戸幕府の、樺太領有に対する激しい応酬も 明治政府によって幕府が倒されると、極北の大地は 混沌とし始めた。

樺太は日露雑居の地とされその統治は無法状態であっ たようである。
 
 明治2年6月、ロシアは遠渕に上陸した。
ロシア兵200人はムラブィヨフスクとここを名づけ 占領したのである。
 さらに兵50人は大泊に上陸し、なんとアイヌ墓地 を破壊しながら兵営を築いたのである!
 アイヌの嘆願により日本側は中止を要請したが無視。
岡本監輔は一路東京に向かい、政府の意向を伺うこと にした・・・・
 しかし 三条実美の回答は次の主旨のものであった。

 樺太は日露雑居地であり、ロシアが暴慢な行動をと ったとしても、勝手な行動をせず、礼節を重んじること。
 ロシア領事館と交渉をせよ。
 現地民を大切にし、僻地を開拓せよ。

あくまで和を重んぜよとのことである。
・・・これに対し、ロシア側はあくまで兵力を駐屯させ 徐々に占領し続けていったのである。


        ☆×○


岡本監輔-この5年前に樺太最北端・ガオト岬で 「大日本領」と記した標柱を建てた初代樺太開拓史の その人である・・。

そもそもロシアは、
この大泊の大地を、渇望していたのだ。
1853年ネベリスキー報告には次の通り記されている。

この際、断固として、泊・亜庭を占領すれば、簡単に ロシアの勢力を樺太南部の要地に植えつけることが できる。樺太は我々にとって、重要な石炭を富んだ 地であるから、この点からも占領すべきである。・・・

ロシアは日本最北の大地を我が物にするため、日本側 最大の根拠地-大泊-の支配を強めるのである。

岡本監輔は樺太に戻った。
明治天皇からの下賜の品と金7万両、米5000俵を もって天皇の勅命を受けたのだ。

勅命とは・・・この交渉が成功するか失敗するかは 皇国の盛衰にかかわることであるから、各々が心を ひとつにし、力をあわせ解決に努めてくれ。




明治天皇はこの樺太の大地が、日本の命運を左右する 重大な大地であることを、よくご認識されていたよう である。

ロシア陸軍准将デフレラトブィッチに申し入れた。
荒れ果てた土地ならともかく、日本の重要な根拠地 「函泊」に
陣営を設けることは、原住民や出稼ぎの漁師の生活を 脅かすことになるのでやめてもらいたい。
 原住民がその墓地を荒らされ、漁場を失い、住み慣れた 「函泊」をたち退くのは、不憫の至りである。
海岸の資材は春の漁の邪魔になるので片付けていただきたい。

翌明治3年正月ロシアは「函泊」に桟橋を建設し始めたの である。・・・


        ☆×○


尼子外務大録は、桟橋建設の中止を申し出た。
ロシア側プルトエフはテーブルの食器を床に叩きつけ 粉砕するとこういった・・・・

ロシアは世界の強国である。
イギリス・フランスと対抗したことすらある。
日本のごとき小国が、わが強大な精鋭に挑戦するのか!!

日本側官吏たちは怒りに震えた。
しかし
岡本監輔らは、政府の意向を若い官吏たちに説き、 軽率な行動はとらぬよういましめた。

当時、ロシア側は軍を派遣していたが、日本側には それがなかったのである。

1月22日、桟橋の構築は進んでいた。
川島元盈ら6人が現地視察すると、その工事中であった。

川島は死をもって阻止すると長官に申し出ていたが、 岡本監輔はこれを慎むよう訓示し、 6人は刀のつかを縛っていた。
6人が接近するとプルトエフは2個小隊を率いて6人に 発砲しようとした。しかし6人が胸を指さし、さあ撃てとばかり アイヌ語で「ピリカ、ピリカ」と言ったので、威嚇射撃に とどまった。
しかし6人が桟橋工事をやめるまで動かないと意思表示すると 6人は捕らえられてしまった。

ここで6人の一人、豊原 清の詠んだ歌を紹介したい。

よしや身は 雪と消ゆとも柯太(樺太)の
 花とにほはむ 大和魂


        ☆×○


外務大丞 丸山作楽はプルトエフに会い、 懸命な交渉により6人の捕縛は解かれた。
丸山は東京に帰ると政府の樺太に対する考えの浅さに憤慨し、 慰労金300両を突き返したうえ、敷香に鎮守府を置くこと を上申した。

日露両国の樺太での衝突は、年をおうごとに激しくなっていた。

副島種臣は
樺太のわが領有権を確実にせよ!


明治4年9月、副島が外務卿になると、 樺太領有の解決をアメリカに依頼した。
樺太の国境を北緯50度線として問題を解決したい・・・。
アメリカ公使はデ・ロング。
ところがイギリス公使のパークスは、
三条実美、岩倉具視、西郷隆盛、大久保利通といった日本政府の重鎮を相手にこう言った。

樺太は古船1艘の価値もない。速やかにロシアに譲れ!

彼は自らを差し置き、アメリカに依頼したことを大変不快に 感じていた。ロシアの味方をすることにしたのである。

西郷隆盛は言い返した。
日本古来の版図を割譲することはできない。

パークスはテーブルのグラスを床に叩きつけ、粉々に すると、
ロシアと樺太を争うならば、日本はこのグラスの様になるぞ!


        ☆×○


アメリカはその解決を辞退した。
副島はついに、自国領である樺太を、買収する決意を固めるのである。
当時、南樺太が歴史的に日本領であることは世界各国が認めていること でもあったので、200万円でこれを買収し、この問題の解決を図ろうと したのだ。
これは諸外国の当時の地図を見ても、よく分かる。
 当時、ロシアはアラスカをアメリカに720万ドルで売却していた。
公務員の初任給が4円の時代の200万円である。
 明治5年10月副島は、ビュツオフに、買収提案を行った。

ところがビュツオフは、こう返答するのである。
樺太と、クリルを交換しないか?

こうしている間にも、樺太での邦人は、トラブルに 見舞われていた。
ロシア側は、そもそもここ樺太を流刑地に設定している。
つまりは日本人の周りはロシア人の犯罪者とロシア軍人に囲まれていたのである。
ロシア人は日本人の漁場を荒らし、窃盗を働き、そして 日本人女性を強姦するなどの事件が多発した。
明治6年3月には、ロシア軍は大泊の日本人の漁場と建物を焼き払ったのである。

        ☆×○


一方、ロシアでは、イギリスとの関係が悪化し、樺太売却論に傾きはじめていた。 ところがその重要な時期に、副島は台湾問題で清国におり、好機を生かすことができなかったのである。
黒田清隆はこの、副島不在の時期に樺太放棄論を有力者の間に広め、ロシアとの関係改善を謀ろうとしたのだ。
 改善とは、74000平方キロの北海道なみの島を譲り渡し、 もともと日本の版図であった千島、5300平方キロを「交換」するという目を覆わんばかりの 土下座外交である。
 日本は当時、台湾問題のほか、征韓論が台頭しており、あまり多方面に問題を残すことは危険だと判断したのだろう。
明治6年11月には、樺太に関する建白書がつくられた。 これには、樺太は「絶域の孤島」「窮陰冱寒」と表現し、樺太を価値のないものとし、 また、ロシアと争わず放棄することが「上策」としている。  まさに売国である。そのような価値のない島をロシアが固執していたのはなぜであろうか。
 太政官内部で、樺太放棄が決定した・・・

まさにその時である!フランス公使パルテルシーから副島の下へ吉報が寄せられた。

ロシアは日本の要求を受け入れて、樺太を売却することに決定した。


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ところがである。
ビュツオフが建白書の情報を仕入れてしまったのである。
「樺太を買収するという案は貴官一人の案らしい。決議では 千島と交換するとなっている。買収案を捨てなさい。」  副島の努力は無に帰した。
 副島と黒田の関係がどうなったかは、想像に難くない。
 市長ならば殴り倒しているであろう。

 さて、
プルトエフと懸命な交渉を実行した外務大丞 丸山作楽は、 三条実美に、こう言った。

 樺太を割譲することはもってのほかの悪政である。この決定を 撤回せねば、貴官の前で割腹する。

樺太は、南半分だけで四国の2倍である。

明治7年1月、サンクトペテルスブルグにおいて、榎本武明を 全権大使としてスツレモーホフと樺太問題の交渉に入った。

榎本は主張した。
国境を間宮海峡としたい。・・・と。


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その後、妥協案として国境を樺太内部に引く案をしめした。
しかしロシアは日本の内情をよく知っていた。 明治政府はまだ国内統治が不安定であったのを利用し、 樺太内部に国境を引くことは、雑居よりも紛争を起こす原因になると 主張し、あくまで、千島と樺太の交換を主張した。
1866年にもロシアは同様の提案をしているが、 日本側は受け入れず、雑居地となった。
明治政府は、いともたやすくこの不平等条約を 受け入れてしまったのである。

岡本監輔の歌を紹介したい。

死に到るも 看るは羞ず 柯太(樺太)島


国民に激しい怒りと悲しみがはしった・・・

ああ、樺太は放棄せられたし・・