樺太県史  あらまし  古代から現代へ

南樺太は、日本が侵略で奪取したとの ソ連全権の主張は、抗議します。


        多賀城碑
奈良時代、
天平宝字6年(762年)12月1日、陸前の国府、多賀城に修造された多賀城碑(壺の碑)には、 「去靺鞨国界三千里」と記されている。
これは、多賀城の位置を当時の靺鞨国との国境からの距離で示しており、 現在の距離にあてはめると1600キロメートル程度と推定される。 多賀城の位置はほぼ仙台の位置であり、 少なくとも北樺太の一部までは、日本世界とみなしていたのかもしれない。
海外の記録では、
山海経に、日本の北部は黒龍江口に起る、とある。 黒竜江とは、現在は中華人民共和国とロシアの境目に 流れている川で、北樺太の西対岸に注いでいる。
このことからも、中華世界でも樺太が古くから 日本世界であったことが確認できる。  640年、唐の時代には、樺太先住民は唐に入貢したこともあるが、
長い間どこの国家に属する島か、よくわからない状態が続いた。

物的な日本人(アイヌ除く)が居住していた証としては、南北朝時代の具足が出土している。
しかし交易品として北方で取引されていたため、 これをもって居住していたとはいえないが、 少なくとも樺太における交易活動が 行なわれていたと考えることができる。

 日本人(アイヌ除く)が公的に樺太に渡ったことが文献で把握できるものは、 近年のものしかなく、寛永12年(1635年)松前公廣が 家臣を樺太へ派遣している。
翌寛永13年には西能登呂岬に上陸し越冬、敷香を検分し、
江戸幕府 3代将軍家光にその領土として樺太を報告している。

1679年には、大泊に松前藩陣屋が設置され、開拓が進んだ。
1689年には、松前藩士、蠣崎伝右衛門が樺太の地図を作成。
そして100年以上の開拓時代が続いた。


 一方、西洋人が樺太を発見したのは
1643年オランダの航海者でメルテン・ド・フリース一行のようだ。
 彼らが到着したのは現在の大泊。ここで樺太アイヌと出会った。  敷香にも到達したが、宗谷海峡は発見できず、北海道と陸続きとした地図を作成している。



19世紀に入り、ロシアの清への影響が強まると、 樺太へもその力を及ぼし始めた。
運命の1806年、
ロシアは樺太久春古丹(大泊)の街を攻撃、焼き討ちにしたうえ、倉庫からは食料などを略奪し圧力をかけた。
これに対抗し松前藩は兵を派遣、函館奉行も藩兵を派遣、さらに盛岡藩に増援を要請した。


        間宮林蔵
翌年ロシアは、大泊・留多加・利尻島・択捉島を攻撃した。
日本側は北方を約3000人で守備、翌年には4000人に追加配備する。
1808年、松田伝十郎により樺太は島であることを確認。 1809年には、間宮林蔵は、ロシア人が樺太に勢力をのばしていないことを確認した。
 これらはロシアの
「樺太は大陸の半島である。したがってロシアの領土である」との主張を否定するため重要なことでした。
1849年、ロシアは樺太最北端に国旗を掲げ、この付近をロシア領と宣言。
樺太対岸の清国の地、黒龍江口もロシアは占領。
次は樺太を奪うこと。それがロシアの狙いでした。


1853年、ロシアは南樺太に侵攻を計画。
久春古丹(大泊)を攻撃し、一時占領されたが、クリミヤ戦争勃発により計画を断念し撤退した。

これはあのペリー来航の年である。
幕府は国防のため樺太を直轄地とした。

1854年幕府はロシアと交渉に入った。
ところがロシアの示した案は、なんと 樺太の南部、亜庭湾周辺部のみを日本領としたもので、 これは日本側の主張と大きく食い違い、交渉は中断された。

この年、日米和親条約が結ばれ、日本の鎖国体制が ついに終焉したのである。
プチャーチンはこれを知ると再び軍艦で下田に現れた。


 1855年2月7日、日露通好条約により樺太は
是までのしきたりどおりとし、 これまでどおり日本人の生活していた土地は日本のものとして 取り決めたが、解釈余地が残り禍根をのこす決定となった。
が、このときはまだロシア人は1人も住んでいなかったのである!
 これは日露で結ばれた最初の条約であり千島の境界は
択捉島-得無島の間とされた。
北方領土の日はこの2月7日から取られている。

 その後ロシアは樺太を流刑地に設定し、その受刑者は 樺太在住日本人とのトラブルを誘発する。

 1857年ロシアは久春内に軍を派遣。
日本側官吏を拘束、住民に重労働を強い、虐待暴行を行う。
 1858年ムラビョフは江戸に向かい、こう主張した。
樺太は清国から割譲された黒龍江口に付属するもので、国境は宗谷海峡であると。
幕府はイギリス・フランスの支援によりこれを拒絶した。

 1859年ついにロシアは艦隊を率いて品川に現れ、 樺太全島をロシア領とする境界策定を請求。
 幕府は断固拒否した。
 幕府は仙台藩、会津藩、庄内藩、秋田藩に命じ、樺太守備を実施。
しかし、ロシアの侵入は激しかった。

        岡本監輔
1865年 、岡本監輔は、樺太最北端ガオト岬に至り、 「大日本領」と記した標柱を建てる。
1867年、幕府は事態の打開を図るため 函館奉行小出大和守をロシアに派遣した。
打開策とは、樺太を南北に2分して北緯50度線を国境とする屈辱的な妥協案であった。
ロシア側はあくまで全島ロシア領との主張を続けた。
1867年3月18日樺太島仮規則により
 樺太は日露の雑居地とされた。

必死の抵抗の見せる幕府だったが、幕府は薩長連合に倒され 明治新政府が誕生。樺太問題は新政府に引き継がれるのだが・・・
明治元年、明治政府は北海道開拓使に樺太出張所を設け樺太行政を統括。 明治3年には樺太開拓使を設置した。 しかし成立当初の明治政府は北方に対抗する力がなかった。
樺太はロシア側は軍人や流刑民。日本側は文官と漁師などで構成。 大泊の街ではロシア人による殺人、監禁、強姦などが相次ぎ、 明治6年には、ロシアは大泊の漁場の建物などを焼き払った。

 このままの勢いでは樺太は武力制圧され、ロシアの領土となる!

明治政府は副島種臣はロシアと交渉し樺太全島の購入を打診したが、不調に終わる。

    サンクトペテルスブルグ条約
明治政府は榎本武明をロシアに派遣した。
2年間にもわたる交渉を続けたがロシアはあくまで樺太領有を主張した。
すべてを奪われるなら・・・領土交換を決意するのです。
 
明治8年5月7日サンクトペテルスブルグ条約 (千島樺太交換条約)により この北海道なみの巨大な島を得撫島以北の千島と交換し妥協をはかりました。

不平等条約です。

 弱小国であった日本には苦渋の選択でした。

 時は白人のアジア征服まであと少しにせまっていた。
 ああ、樺太は放棄せられたし・・
 この交換に国民に大きな衝撃が走った。
不当な交換に非難が巻き起こった。


 こうして、数百年にわたる樺太での日本人が経営・維持した歴史は終止符を打たれた。

それから30年・・・
明治政府は急速な近代化、国力増強を続けた。
江戸幕府が結んだ不平等条約。
白人と対等に・・・

    長岡外史
国力を向上した日本は巨額の借金をし帝政ロシアと戦った。白人の奴隷であった有色人種が白人に対抗できることを世界に示した。
長岡外史参謀次長は新設第十三師団によって樺太全島を占領。

 明治38年・・・
ポーツマス条約では外交交渉の不得手により
北緯50度以南の主権しか回復することができませんでした。50度線との決定に、アイヌの方々はとても残念がったそうです。


 南樺太は返還されたのです。
 多くの日本人の血を流して・・・




そして・・・昭和18年樺太は正式に内地に編入。
樺太から沖縄にいたる真の日本の歴史が始まったのです。